我があゆみ歴記17
研修が始まって最初の2週間、まずはグループ5社すべてについての講義を受けた。
その後、グループの各会社への振り分けが実施され、会社別に配置換えが行われた。
それに伴い、親しくなっていた寮の同室の仲間とも別の部屋に別れる事になった。
ここでは大学の専攻科目には関係無く、どの会社に振り分けられるかは判らない。
自分が希望していた会社に行けずに残念がっていた者も結構多かった。
この頃になると、学生生活のダラけた習慣から抜け出す事の出来ない者や希望した会社
に振り分けられなかった者達が次々と「夜逃げ」を始め、朝のグラウンド集合者の人数は
研修が始まった当初から比べると日々少なくなって行った。
会社は、毎年多くの脱落者が出る事を計算し、入社式で見た異常なぐらいの人数を採用
していたものと思われる。
私は希望通りの会社に配属されたが、今度は希望の課に行けるかどうかの関所がある。
配属の会社には当時「化学品」・「農業資材」・「食品」の3つの課があったが、次の3週間
は、この3つの課全部について研修を行った後で最後に配属する課が決められる。
配属された課で残りの期間専門的な研修が行われ、終了と言う運びになる訳だ。
研修中の厳しさは幾つかあったが講義で聞いた多くの内容をレポートにまとめ毎晩提出
し、検閲を受けてOKを貰うのが大変だった。内容が悪い場合は書き直して再提出となる
訳だがそれだけにとどまらず印鑑の名前の角度が15度以上斜めに押されている場合も
再提出の対象になったので最初にレポート用紙に印鑑が正しく押せたのを確認してから
レポートを書き始めた。 再提出があると就寝が遅くなり睡眠不足になった。
全ての開始時間は厳守する事が絶対で、講義の開始迄には広い工場の敷地を移動する
時間も計算に入れ、しかも誰一人遅れる事なく団体で行動する事が要求された。
当時は土曜日も休みではなかったので、週6日間研修はしっかりと行われた。
日曜日は、体育館とグラウンド、スポーツ用具等は自由に使う事が出来たが工場敷地内
からの外出は禁止されていた。(一度外に出たら再入場は認められない規則であった。)
厳しい研修であったが、誰もが何処かで一度は体験しておくべきモノの様に思われる。
私は希望通り化学品課への配属が決まり、研修も最終段階をむかえた。 (つづく)
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