我があゆみ歴記29
組織と言う歯車の1つとして勤めて来た者に、そうそう簡単に経営者などは出来ない。
以前のブログ「眼鏡の話し」の中でも書いたが、特に歩留まりの悪い業界であり製造会社
としての利益の確保は困難で、最後は商社並みの薄利に毎月泣かされる始末である。
私の会社は大きな利益を上げる事は無かった反面、銀行筋に大きな借金も無かった。
零細企業の親分としては、ひたすら生産の効率を上げる事を考える毎日であった。
日常の問題に追われ、経営者として身に付けるべき事など学習する暇は無かった。
最初は得意の自動化を試み、少しは能率的に改善された部分もあったが、結局最後には
何故これまで手作業で製造され続けて来たかを改めて知る様な業界であった。
何かをしなくてはいけない、と言う焦りばかりが先立って空回りの連続であった。
得意分野も活かせず、一方では真の経営者にもなれないまま悪戯に時間だけが過ぎた。
樹脂の開発も思う様に進まず二の矢、三の矢の製品を送り出せずにいる間にカーボン枠
の売れ行きは下降線をたどり始めた。 1つのモノがそういつまでも売れ続ける訳が無い。
特に流行性の要素がある商品だけに、逆によくここまで長持ちしたと私は思っている。
会社の数字を良くするには時間が掛かるが、悪くなり始めるとそのスピードは加速される。
あれよあれよと言う間にグループ各社の数字は急速に悪化の一途をたどって行った。
私も最初の頃は会社で借金し、別の会社の運転資金を手助けしたりしていたが、その内
自分の会社が危なくなって来た。グループ会社の1つが、支払いに行き詰まって起こした
融通手形による負債が、雪だるま式に膨らんだ事が悪化を加速させる原因だった。
私は会社経営については無知だったが、どうしたら会社が潰れるか、ぐらいは判った。
打開策について他の役員と意見が対立し、私は次の職も決めないまま辞表を出した。
経営者なら最後まで責任を持つべきかも知れないが、当時の私にその余裕は無かった。
何故なら、私のやりかたで経営させて貰えずして、責任だけは取れなかったからである。
(つづく)
コメント