我があゆみ歴記30
平成3年3月、眼鏡会社を辞めた私は、自らをリフレッシュさせようと思い、新たな仕事先
が見つかる迄の充電を宣言した。 気候も良くなっており、家族で旅行などにも出掛けた。
役員であった事から失業保険は貰えなかったが、当時私はそこそこ貯金もあり、暫くの間
はゆっくり出来るだろうと、正直なところ思っていた。
ところがドッコイ、給料の陰で会社が支払ってくれていた部分が全て個人負担になったり
月々分割で支払っていた市県民税等が期ごとでドッと請求されて来た事で、私の貯金は
アッという間に底をついてしまった。 これではいかん、何か仕事をしなくてはダメだと思い
すぐに色々と就職活動を始めたが、この時すでに私は40歳を過ぎており、リクルート等の
面接においても、全て最後に年齢制限で不採用になる始末だった。
私の祖父が、この子は困る事が有っても、いつも誰かに助けて貰える星の下に生まれて
来た子だ、と言ったがまさにその通りで、この時も私を助けてくれる人が現れた。
眼鏡会社の時から個人的にも仲良くさせて貰っていた電器屋さんで、その人から福井市
内にあった自動制御関係の設計と組み立ての会社を紹介して頂く事になった。
またしても、学生時代のアルバイトと大阪工場で培った技能が、自らの窮地を救うことに
なり、助け人の出現と併せて何か不思議なモノを感じずにはいられなかった。
毎日、設計図と向き合って制御盤を組み立て、出荷した。 納めた制御盤に改良箇所が
発生すると現場に出向いて設置場所で配線替えなどの工事をする事もあった。
私はこの自動制御関係の会社で4年間勤めた。 給料は、福井の相場と比べかなり奮発
してくれてはいたと思うが正直それまでの収入と比べると少なく、三食昼寝付きで嫁に貰
った家内まで働かせる事になったが、働く事が楽しいと言って頑張り、私は助けられた。
そんなある日、またしても私の人生を大きく変える人物との再会があった。 (つづく)
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