我があゆみ歴記25
当時、世の中ではオフィスコンピュータが普及し始めており、私が名古屋支店勤務終盤の
頃、支店にもIBMのBASIC機器が導入されて来たのを覚えている。
しかしながら、大阪工場は会社の中でも特殊な業務体系であり、この当時オンラインでの
業務が難しいと言う理由で、まだコンピュータは導入されず、仲間外れ状態になっていた。
工場長は、何とか大阪工場でもコンピュータを使った業務が出来ないかと、かねがね考え
ていた様だが高価な事もあり、なかなか導入までは結びつける事が出来なかった様だ。
そこで工場長は私が買ったパソコンで色々な事を実践して欲しいと言い出したのである。
つまり、買ったばかりのパソコンを自宅に持ち帰らないで、会社で使って欲しいと言うのだ。
その代わりとして、本体以外で必要な周辺機器は全て工場で購入して貰える事になった。
すぐに、かつての宿直室の畳の部屋は、にわかコンピュータ室に生まれ変わった。
結局それから1年以上もの間、このパソコンを私用で使う事は出来なかったが大阪工場に
おける、私の次の仕事が誕生する事になった。
当時の大阪工場長は、四の五の言う事が嫌いな親分肌の豪傑で、指示も簡潔だった。
何でもええからキーをポーンと押したら答えが出る様にプログラムをしてくれ!が、口癖で
暗中模索しながらプログラムを組んでいた私の尻を叩いて、適度なプレッシャーを掛けた。
そのお陰と、興味の有る事は覚えるのも早くて私のプログラムは次々に完成して行った。
手書きだった仕入伝票や売り上げ伝票がプリンターで打ち出される様になって、経理には
とても喜ばれた。この事がキッカケで大阪工場にもIBMの機械が導入される事になったが
到着した機械は、何と名古屋支店のお古だった。
今度は、本社のDP室がプログラムをしてくれると思いきや、やはり特殊業務の内容と流れ
が、よく判らないと言う理由で、またしても私がプログラムするハメになってしまったのだ。
工場長はまた、ポーンと押したら答えが出る様に置き換えればええ!と、簡単に言ったが
シャープとIBMのBASIC言語は違うので、また最初からプログラムし直す必要があった。
オフィスコンピュータは遊び中心のパソコンと比べると奥が深く、操作コマンドなども多岐に
渡っていた。 私はIBMの講習にも参加させて貰い、ここで真剣にプログラムを学んだ。
約1年を掛けて、ポーンと押したら打ち出されるアンプルの原価計算、経理の損益計算書
や資産負債明細などに至る一連のプログラムを完成させ、同時に私は係長に昇進した。
私は、またしても会社のお陰で新しい技能を修得させて貰う事になったのである。(つづく)
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