我があゆみ歴記21
井の中の蛙とは、まさに当時の私の事であった。
大阪営業所に異動になり、名古屋とは異なる市場の大きさを初めて知る事になった。
売り上げ金額はもとより、机を並べる担当者の数も多くて1人当たりが受け持つ得意先の
数は優に名古屋支店の10倍を越えるモノであった。
更に化学品の品目別の担当と言う責務が加わって、その品目については売り上げ達成の
為には他の担当者の領域まで管轄する体制になっていた。従って指定された品目担当の
得意先まで加えると更に驚くべき軒数になった。
最悪だったのは私が大阪営業所に転勤をした頃、ちょうど化学品の大幅な値上げ実施が
行われており営業所の担当者は各自の得意先の値上げに必死で、新任の私が担当する
得意先への最初の挨拶廻りには、前任者がほとんど同行して貰えなかった事である。
その結局、私は地図を片手に1人で初めての担当先に新任の挨拶をして廻った。
それで値上げの実行が免除される訳もなく名刺交換をした直後に値上げの話を切り出さ
なくてはならない現実に、得意先にはかなりの顰蹙を買った事は言うまでもない。
結局、得意先への新任の挨拶も値上げも中途半端なまま、イタズラに時間だけが過ぎた。
この様な状況下でも誰1人かばってくれる者は無く逆に6年も7年も営業経験があるのに
何をしているのだと上司にはイジメにも似たかたちで毎日の様に怒鳴られる始末である。
今になって見ればこのぐらいの事でと思うが当時の蛙は完全にやる気を無くして挫折して
しまったのである。 そんな頃、ちょうど全社一斉に人事考課が行われた。
私は、あと先の事を考えないまま希望欄に、どんな仕事でもいいから営業を外して欲しいと
書いた。 正直私の頭の中には、もしかしたら徳島に帰れるかもしれないと言う密かな希望
があったが、結果はその年の9月から中津にある大阪工場へ転勤の辞令が下った。
結局、大阪営業所では8ヶ月だけ勤務をした訳であるが、転勤辞令が出た時でもまだ訪問
出来ていない得意先が随分残っていた。 何を隠そう、現在私が勤務している会社もその
中の1つであった。 それにしても私は、改めて自分の実力の無さを痛感した。 (つづく)
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