我があゆみ歴記20
毎年増えて行った名古屋支店化学品課のノルマも比較的順調にこなし、6年が過ぎた。
この間支店長は3人代わった。 入社4年目で家内と結婚し、この頃初めて部下も出来た。
縁とは本当に不思議なモノで、家内と知り合ったキッカケがまさにそうであった。
当時、家内の実家は父親とその弟(叔父)でボイラー関係のメンテナンスを行う小さな会社
を経営していた。 私はボイラーに使う薬品をほんの少し2次店経由でその会社に販売して
いたが数量が数量だけに全て代理店任せで、入社以来一度も訪問した事は無かった。
ある日、2次店の担当者と別の会社に同行した帰り、その担当者の用事で家内の実家に
立寄ったのが知り合うキッカケになった。 もし用事が無かったら遭う事は無かっただろう。
私の会社は当時年に4回ほど人事異動があった。 新入社員が入る前の3月頃、8月決算
の前後、年末・年始、そして必要に応じての実施、この4回がほぼ通例になっていた。
発表は事前の内示も発表日の通達も無く、ある日いきなりFAXで流れて来る。
発表が予想される頃になると、社員は戦々恐々として毎日FAXの着信音を気にした。
当時のFAX用紙は巻紙式であったために、発表近くなると本社から各支店の総務にFAX
用紙を新品に取り替えておく様に連絡があったそうだ。
北は北海道から南は九州まで各部署の異動内容を途切れさせない様にする為である。
昭和54年の師走のある朝、客先に出掛けようとした時、FAXの着信音が鳴った。
年末異動の発表である。 発表は転出・転入の両方の記載が有り、排出される用紙は長く
床の上でトグロを巻いた。早く外回りに出掛ける様に支店長に促されながらもFAX用紙を
覗き込んだ。名古屋支店の転出欄に私の名前があった。 転入先は大阪営業所だった。
支店長からは大阪で更に大きな化学品市場を学んで貰う為の転勤であると説明された。
翌年から大阪営業所での勤務が始まったが、同時に市場の違いと厳しさを知る事になる。
(つづく)
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