私の無線室

  • 28. AT-230
    無線室改装しました。

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2010年4月

2010年4月30日 (金)

我があゆみ歴記(最終回)

自動制御の会社に勤めて、いつの間にか4年が過ぎた。

ある日、会社に来客があったが、その客の話し声はどこかで聞き覚えのある声だった。

応接室を見ると、眼鏡の会社で共に経営者をした仲間の一人であった。

彼は私が大阪工場時代に複合材料の関係で知り合い、カーボン枠の企画開発等も一緒

に苦労した人物であるが、彼は私より1年ほど早く眼鏡会社にヘッドハントされていた。

私が転職する事を最終的に決断したのも、彼の積極的な誘いによるところが大きかった。

結局、眼鏡会社は倒産し、彼は最後まで残って会社の後始末をしてくれたと聞いた。

その後、彼は廃水処理の会社に再就職し、その日は制御設備の仕事で来社していた。

この事がキッカケとなり、彼とは再び公私で付き合いを始めた。

平成7年7月、その彼から折り入って話がある、と連絡を受けた。

福井県が誘致した三国のテクノポート工業団地に大阪から進出して来た会社が、電気の

わかる化学屋を探しているので、私に面接を受けて見ないか?、と言うのである。

彼はその会社に廃水処理の仕事で出入りしていて、私に紹介してくれたのである。

私の人生の重要な分岐点にかかわる不思議な人物であるが、今は彼には感謝している。

私はすぐに履歴書を書いて、その会社の面接を受けに行った。

その時私は、更に年を重ねて45歳になっており、またしても年齢制限の事が頭をよぎった。

しかし、私を面接したその会社の工場長は、「まだ15年働けるわ!」、と言ってくれた。

何とありがたい言葉だろうか? 私はこの会社に最後のご奉公する事を決めた。

ブログご愛読の各位には既にお判りの事と思うが、この会社こそ現在私が勤務する会社

なのである。 平成7年8月に入社後、私は工場で3年間勤務し、その後大阪に異動となり

現在に至っているが、当時の工場長が言った15年目を今年私は迎える事になった。

ありがたい事に、現在の職責のまま継続して勤務させて貰える事がこのたび決まった。

私の経歴を知っている人からは、「波瀾万丈の人生だね?」とか「回り道したね?」などと

言う言葉を聞く事もあるが、私自身はその様に思った事は無い。

何故なら自分自身で選んだ末の結果である部分が多かったのと、一見回り道をした様に

見えても、その全ての事が現在の私の血となり肉となっているからである。

還暦は人生の再出発点であり、私はもう一度初心に還って仕事を続けたいと思っている。

  

今回、私の歩みについて長々と書いて参りました。 読者の方々には、興味の無い部分も

多かったと思いますが、5月の連休中に迎える私の60歳の誕生日を記念して、書かせて

頂きました事ご了承下さい。 ご愛読感謝! (完)

  

2010年4月29日 (木)

我があゆみ歴記30

平成3年3月、眼鏡会社を辞めた私は、自らをリフレッシュさせようと思い、新たな仕事先

が見つかる迄の充電を宣言した。 気候も良くなっており、家族で旅行などにも出掛けた。

役員であった事から失業保険は貰えなかったが、当時私はそこそこ貯金もあり、暫くの間

はゆっくり出来るだろうと、正直なところ思っていた。

ところがドッコイ、給料の陰で会社が支払ってくれていた部分が全て個人負担になったり

月々分割で支払っていた市県民税等が期ごとでドッと請求されて来た事で、私の貯金は

アッという間に底をついてしまった。 これではいかん、何か仕事をしなくてはダメだと思い

すぐに色々と就職活動を始めたが、この時すでに私は40歳を過ぎており、リクルート等の

面接においても、全て最後に年齢制限で不採用になる始末だった。

私の祖父が、この子は困る事が有っても、いつも誰かに助けて貰える星の下に生まれて

来た子だ、と言ったがまさにその通りで、この時も私を助けてくれる人が現れた。

眼鏡会社の時から個人的にも仲良くさせて貰っていた電器屋さんで、その人から福井市

内にあった自動制御関係の設計と組み立ての会社を紹介して頂く事になった。

またしても、学生時代のアルバイトと大阪工場で培った技能が、自らの窮地を救うことに

なり、助け人の出現と併せて何か不思議なモノを感じずにはいられなかった。

毎日、設計図と向き合って制御盤を組み立て、出荷した。 納めた制御盤に改良箇所が

発生すると現場に出向いて設置場所で配線替えなどの工事をする事もあった。

私はこの自動制御関係の会社で4年間勤めた。  給料は、福井の相場と比べかなり奮発

してくれてはいたと思うが正直それまでの収入と比べると少なく、三食昼寝付きで嫁に貰

った家内まで働かせる事になったが、働く事が楽しいと言って頑張り、私は助けられた。

そんなある日、またしても私の人生を大きく変える人物との再会があった。 (つづく)

   

2010年4月28日 (水)

我があゆみ歴記29

組織と言う歯車の1つとして勤めて来た者に、そうそう簡単に経営者などは出来ない。

以前のブログ「眼鏡の話し」の中でも書いたが、特に歩留まりの悪い業界であり製造会社

としての利益の確保は困難で、最後は商社並みの薄利に毎月泣かされる始末である。

私の会社は大きな利益を上げる事は無かった反面、銀行筋に大きな借金も無かった。

零細企業の親分としては、ひたすら生産の効率を上げる事を考える毎日であった。

日常の問題に追われ、経営者として身に付けるべき事など学習する暇は無かった。

最初は得意の自動化を試み、少しは能率的に改善された部分もあったが、結局最後には

何故これまで手作業で製造され続けて来たかを改めて知る様な業界であった。

何かをしなくてはいけない、と言う焦りばかりが先立って空回りの連続であった。

得意分野も活かせず、一方では真の経営者にもなれないまま悪戯に時間だけが過ぎた。

樹脂の開発も思う様に進まず二の矢、三の矢の製品を送り出せずにいる間にカーボン枠

の売れ行きは下降線をたどり始めた。 1つのモノがそういつまでも売れ続ける訳が無い。

特に流行性の要素がある商品だけに、逆によくここまで長持ちしたと私は思っている。

会社の数字を良くするには時間が掛かるが、悪くなり始めるとそのスピードは加速される。

あれよあれよと言う間にグループ各社の数字は急速に悪化の一途をたどって行った。

私も最初の頃は会社で借金し、別の会社の運転資金を手助けしたりしていたが、その内

自分の会社が危なくなって来た。グループ会社の1つが、支払いに行き詰まって起こした

融通手形による負債が、雪だるま式に膨らんだ事が悪化を加速させる原因だった。

私は会社経営については無知だったが、どうしたら会社が潰れるか、ぐらいは判った。

打開策について他の役員と意見が対立し、私は次の職も決めないまま辞表を出した。

経営者なら最後まで責任を持つべきかも知れないが、当時の私にその余裕は無かった。

何故なら、私のやりかたで経営させて貰えずして、責任だけは取れなかったからである。

(つづく)

 

2010年4月27日 (火)

我があゆみ歴記28

私の転職を誘った福井県鯖江の眼鏡会社は、カーボンフレームのヒットで成功していた。

私に求められた仕事は、カーボンに続く新しい眼鏡用材料の開発だった。

混練機も成型機も導入するので、福井に来て今まで通り樹脂の開発を続けて欲しいとの

誘いであり、ヤリ甲斐のある仕事だけに私の心は大いに動いた。

自分たちが開発した、カーボン複合材料の行く末を見守りたいと言う想いも後押しした。

結局、色々と悩んだ末に転職を決めた私は、昭和62年5月福井に向けて旅立った。

但し、今でもハッキリと言える事は、開発プロジェクトが解散せずに継続していたか、解散

しても大阪工場で引き続き私の仕事があったなら、転職は無かったと言う事である。

しかしながら、その両方を一度に失った私は、初めて次の仕事を自分の意志で選択する

事になった。 勿論、社内で別の部署への異動の話しもあったが出来る事なら好きな仕事

を新天地で続けたい、と言う男の夢とロマンが、そう決断させたのである。

しかしながら、このあたりから既に私の選択の誤算が始まっていた。

色々な方々の応援を背に、福井に到着した私は、そこで信じられない言葉を耳にした。

樹脂の開発はさておき、君には眼鏡枠の組立工場を1つ見て欲しいと言うのである。

この時、私が転職した眼鏡会社は、カーボンフレームのヒット等で儲けた資金を投資して

いくつもの会社を興しており、それぞれの会社の経営者には大手企業等からヘッドハント

した人物を充て、当時では他に類を見ない総合眼鏡会社を目指していた。

そんな中で、私にはグループの1つである組立工場の経営を任せたいと言うのである。

話が全然違うとはこの事で、経営者などと言うモノはそう簡単に出来る仕事では無い。

最初、私は話が違うと断ったが前の会社には既に辞表を出して来ており、私の帰る場所

はもう無かった。 結局私は暗中模索で会社経営と言うモノを始める事になってしまった。

(つづく)

 

 

2010年4月26日 (月)

我があゆみ歴記27

めがね枠用の開発は、契約の関係から大手メーカーとの提携で、素材を販売する形にて

進められた。 ほどなく樹脂製でありなかがら、金枠の様に細いめがね枠が完成した。

ナイロン樹脂と、炭素繊維、セラミックのミクロ繊維配合によるハイブリッド素材である。

当時、「カーボンフレーム」と呼ばれ、すぐにサングラス等で大流行する事になるめがね枠

であるが、この時点ではそんな事は全く予想もしていなかった。

時を同じくして、他に営業展開していた様々な用途の複合材料が日の目を見始めた。

小さな物では、腕時計やチョロQ自動車の歯車など、虫眼鏡で見なければならない様な物

もあったが、魚釣りのリールやゴルフクラブのヘッド用途等への採用が、数量を増やした。

中でも、かつて私が所属した名古屋支店の化学品担当が、T自動車のバンパー用に販売

実績を作った事が複合材料全体の売り上げを大幅アップさせる結果につながった。

そこで外注での加工はその手を離れ、徳島の工場に機械を導入しての内製が決まった。

それから間もなくして、複合材料の各商品群は十分に営業の販売ベースに乗った、と言う

理由で、開発プロジェクトの解散が決まったのである。

正直、私はこの仕事にとてもヤリ甲斐を持っていた。 開発した材料が様々な分野の用途

を次々に担って行くと言う現実は、開発に携わった者にしか判らない至上の喜びだった。

プロジェクトのチームワークも良く、成功の喜びは皆で共有する事が出来た。

そんな組織が解散と聞いて、私は何とも言えない寂しい気持ちに陥った事を思い出す。

内製化で徳島に帰れるかと期待したが、異動の発表は無く、完全にこの仕事と決別する

事になり、余計に寂しさが増した。 更にこの仕事に関わっていた数年の間にアンプルも

ガラスから樹脂に取って代わろうとしており大阪工場の存続自体が問われる様な状況に

変わっていた。 従って今度ばかりは私の次の仕事も飛び込んで来る事は無かった。

そんな折、カーボンフレームでコンタクトをした福井県鯖江の眼鏡会社から転職の誘いを

受け、私の心は大いに揺れ動く事になった。 (つづく)

 

2010年4月23日 (金)

我があゆみ歴記26

親分肌だった当時の大阪工場長は、本社の会議などに出席すると 「大阪工場が請けんと

どこもせんやろ?!」 と、他の部署が引き受けるのを渋る様な仕事でも積極的に引き受け

て来るところがあった。 当時、単体販売していたニューセラミック製ミクロ繊維の川下展開

として、エンジニアプラスチックと混ぜて樹脂の改質を目的とした複合材料を販売する計画

があったが、まだ小規模開発段階の業務であり、社内で生産を請ける部署は無かった。

ある日、工場長は会議でこの仕事を引き受け、意気揚々と大阪工場に戻って来た。

どうするのだろうかと思いきや、ちょうど一連のコンピュータプログラムを終え、一息ついた

ばかりであった私の次の任務として、この仕事をする様にと命令を受けたのである。

まさに何でも屋である。 一時はもうダメかなと言う様な時期があった事を思ったら、次々と

タイムリーに、しかもバラエティに富んだ仕事に出会い、ある意味私は幸せであった。

私の仕事としては、自社で製造する事に備えて、事前に外注加工を確立させる事だった。

ナイロン、ポリアセタールなどの樹脂に配合して、混練押し出し機で複合材料のペレットを

作り、営業が販売出来る品質の製品に仕上げてコード化して行く、と言った仕事である。

私は頻繁に外注先に通い、混練機の操作と混練の技術を学んで、製品を作って行った。

この仕事も全く初めての経験であったが、この担当は数年に渡って続けられたので、また

しても私の中で、新しい技能を身に付ける事になった。

製品化して行った複合材料は営業の努力で、徐々にその販売数量を増やして行った。

製品の特徴としては樹脂単体の時と比べて成型収縮率、いわゆる「ヒケ」が少なかったり

摺動性、つまり摩擦が減って滑りやすくなる性質が向上するなどの点があり、樹脂加工の

様々な分野に、メリットをもたらして行った様である。

そんなある日、新しい複合材料の企画として、めがね枠用途の話が飛び込んで来た。

それまで樹脂製の枠と言えば、セルロイド製の様な太いモノしか無かったが、金枠の様な

細い枠を樹脂で出来ないか? と、言う要求事項であった。

私は、すぐさまこれの試作に取り掛かったが、この企画が私のその後の人生を変えること

になろうとは、その時は考えもしなかったのである。 (つづく)

 

2010年4月22日 (木)

我があゆみ歴記25

当時、世の中ではオフィスコンピュータが普及し始めており、私が名古屋支店勤務終盤の

頃、支店にもIBMのBASIC機器が導入されて来たのを覚えている。

しかしながら、大阪工場は会社の中でも特殊な業務体系であり、この当時オンラインでの

業務が難しいと言う理由で、まだコンピュータは導入されず、仲間外れ状態になっていた。

工場長は、何とか大阪工場でもコンピュータを使った業務が出来ないかと、かねがね考え

ていた様だが高価な事もあり、なかなか導入までは結びつける事が出来なかった様だ。

そこで工場長は私が買ったパソコンで色々な事を実践して欲しいと言い出したのである。

つまり、買ったばかりのパソコンを自宅に持ち帰らないで、会社で使って欲しいと言うのだ。

その代わりとして、本体以外で必要な周辺機器は全て工場で購入して貰える事になった。

すぐに、かつての宿直室の畳の部屋は、にわかコンピュータ室に生まれ変わった。

結局それから1年以上もの間、このパソコンを私用で使う事は出来なかったが大阪工場に

おける、私の次の仕事が誕生する事になった。

当時の大阪工場長は、四の五の言う事が嫌いな親分肌の豪傑で、指示も簡潔だった。

何でもええからキーをポーンと押したら答えが出る様にプログラムをしてくれ!が、口癖で

暗中模索しながらプログラムを組んでいた私の尻を叩いて、適度なプレッシャーを掛けた。

そのお陰と、興味の有る事は覚えるのも早くて私のプログラムは次々に完成して行った。

手書きだった仕入伝票や売り上げ伝票がプリンターで打ち出される様になって、経理には

とても喜ばれた。この事がキッカケで大阪工場にもIBMの機械が導入される事になったが

到着した機械は、何と名古屋支店のお古だった。

今度は、本社のDP室がプログラムをしてくれると思いきや、やはり特殊業務の内容と流れ

が、よく判らないと言う理由で、またしても私がプログラムするハメになってしまったのだ。

工場長はまた、ポーンと押したら答えが出る様に置き換えればええ!と、簡単に言ったが

シャープとIBMのBASIC言語は違うので、また最初からプログラムし直す必要があった。

オフィスコンピュータは遊び中心のパソコンと比べると奥が深く、操作コマンドなども多岐に

渡っていた。 私はIBMの講習にも参加させて貰い、ここで真剣にプログラムを学んだ。

約1年を掛けて、ポーンと押したら打ち出されるアンプルの原価計算、経理の損益計算書

や資産負債明細などに至る一連のプログラムを完成させ、同時に私は係長に昇進した。

私は、またしても会社のお陰で新しい技能を修得させて貰う事になったのである。(つづく)

Ibm_5120

2010年4月20日 (火)

我があゆみ歴記24

アンプル加工機の取り替えと改良に伴う工事は、しばらくの間続いた。

これまで、大阪工場の機械製作のスタッフと言って来たが、実はそんな専門の部も社員も

存在せず、アンプル製造スタッフのほとんどが機械関係の仕事も見事こなした訳である。

アンプルの生産をストップさせず、大量の注文を抱えながらの工事は、正直なところ厳しい

モノがあったが、全員で協力し合い、交代でそれぞれの任務を全うした。

彼らの改良アイデアは素晴らしく、考案したアンプルの加工機は、生地管が流れる無駄な

時間を利用して別の仕事をさせ、市販機の2倍の数の生産が出来る能力を持っていた。

この機械の製作では当時社長賞を貰った。私もこの時期に物の流れと動きに伴った自動

制御の基礎をずいぶん勉強させて貰う事になった。

私は、電気系統の故障やメンテナンスなどでも時々現場に呼び出しを受ける事があったが

加工用 ガスバーナーの熱の影響で、2階の工場内は冬間でも30℃、夏間には何と50℃

にもなる温度環境に、すぐヘロヘロになってしまい、本当に参った降参!であった。

こんな環境の中でも長年勤務を続けて来られた現場の方々には本当に頭が下がる。

その内アンプル加工機の工事も終わり、それに伴う私の仕事もめっきり少なくなって来た。

そんなある日、私は仕事で日本橋に行った帰りに衝動買いをして、その当時お目見えして

来たパソコンと言うモノを1台買ってしまった。 シャープのMZ-80と言う機種である。

クリーンコンピュータと呼ばれ、入れる頭脳によって、マシン語からBASICまで色々な形で

使える機種であり、遊ぶには面白いと思い買った。

私は、これをアマチュア無線関係に使う予定だったが、その日自宅に持ち帰る前に工場長

に見つかってしまい、その結果少々困った事になってしまうのである。 (つづく)

Mz80

2010年4月19日 (月)

我があゆみ歴記23

大阪工場長に呼び出しを受けた私は、そこで電気の回路図面を1つ見せられた。

新規に導入したアンプル加工機の制御盤図面であったが、この図面をもとに複製の盤を

組み立てる事が出来るか? と言うのである。

加工機は最初に1台購入すれば、機械部分を複製するスタッフは現場には揃っていた。

問題は電気制御部分で、外注に出すと1台100万円ぐらいの見積もりだと言うのである。

こんな処で学生時代のアルバイトが役に立つとは思わなかったが、図面を基に部品代を

計算したところ10万円迄で十分組み立てる事の出来る比較的簡単なモノであった。

私の見積もりに工場長は最初疑いを持ったが、間違いなく出来ると言う私の言葉に今度

は、高額な見積もりを出して来た外注に文句の電話を入れると言う。

電機業界では設計費や加工費等を入れるとこんなモノだと説明すると、それなら10万円

迄の費用で君が製作して見ろ!と、正式に工場長命令をうける事になってしまった。

同時に、生地管くくりの任務は解かれ、私1人だけの技術課主任を拝命する事になった。

制御盤の製作に必要なパーツ類は大阪の電気街、日本橋ですぐに全部揃った。

製作を前に、加工機の機械部分は既に完成しており、私の仕事が急がれた。

それから暫くして、制御盤部分も完成し、機械に取り付けて試運転が行われた。

見事に複製機は本機と同じ動きをし、この共同作業は工場長ご満悦のうちに終了した。

これを機に、旧式機械を全て取り替える事になり、私の下には次々と仕事が舞い込んだ。

今度は複製ではなく現場のスタッフが考案した機械を独自に制御する必要があった。

必要な動きを機械製作のスタッフに細かく確認しながら図面を引いて行った。

当時はシーケンサー制御はまだ無かったので、リレーとタイマー中心の回路になった。

電気パーツの入荷待ちの時などは、機械の動きを司るカムを擦る作業なども手伝った。

この時、現場の方達には金属加工や電気溶接など、それ迄私が経験をした事が無かった

様々な特殊技能を教えて頂いた。  これがまた将来私を助ける事になるのだが、その話

はさておき、この時期の私は充実感に溢れ、毎日がアッと言う間に過ぎて行った。

(つづく)

 

2010年4月18日 (日)

我があゆみ歴記22

昭和55年9月1日から私は大阪工場に勤務し始めた。

当時の大阪工場はガラス管を加工して注射液用のアンプルを作るガラス工場であった。

その頃はまだガラス製のアンプルが主流で、グループ会社向けに出荷されるアンプルの

生産は好調であった。 毎朝、アンプルの原料となる様々な太さや色のガラス管が大量に

トラックで入荷されて来た。 私の最初の仕事は、この背丈より長い「生地管」と呼ばれる

ガラス管1組50本ほどの束を何束もトラックから下ろし、「馬」と呼ばれる組木の台の上に

乗せ、生地管の包装紙を解いたあと、綿製のロープで2ヶ所を縛って束ねるモノであった。

この仕事は会社では「生地管くくり」と、呼ばれていた。

束ねられた生地管は水槽で洗浄後に乾燥室で水分を除き2階の加工機へと送られる。

加工機では生地管の必要な部分をバーナーで加熱して、伸ばしたり切断をしたりしながら

製品のアンプルにして行く。 私は毎日汗をかきながら、この生地管くくりを続けた。

初めの頃、肉体的な疲労は出たが、自分自身で選んだ道であり悔いは無かった。

営業の時と違って、定時で仕事を終われると言う気楽さが嬉しくもあったが、「これで俺の

出世も終わったな」と、正直この時には思った。

同時に今まで自分の中に有ったあらゆるプライドを全部捨て去って、ゼロからの再出発を

決めた。 結果、周りの先輩達との距離は、それまで以上に急速に近づいて行った。

当時、私は30歳、一番年の近い人で40歳ぐらいで、定年に近いような年輩の方達も多か

ったが 私は、この親子ほど年の離れた先輩方には随分大事に、良くして頂いた。

阪急中津のガード下の小汚い居酒屋で飲んだあと十三に流れてカラオケを歌いまくった。

営業の酒と違って、飲んだ時の会話の中に一切仕事の話しが出ないのが心地よかった。

勘定の時、私の支払いは免除か、減額での割り勘によく甘えた。 本当にありがたかった。

この時、君は我々には気遣う事は無い、素直に甘えておきなさい。そのかわり君に後輩が

出来た時には、我々に返す気持ちの分を順送りで彼らにしてあげて下さい!と、先輩達に

は教えられた。 現在でも、私はこの教えを出来る限り実践する様に努めている。

そんなある日、突然私は工場長に呼び出しを受け、急いで事務所に向かった。 (つづく)