私の無線室

  • 28. AT-230
    無線室改装しました。

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2010年3月

2010年3月23日 (火)

我があゆみ歴記13

私の、春日井アマチュア無線クラブでの活動が始まった。

アマチュア無線に関し電波法では「アマチュア業務とは金銭上の利益の為でなく、もっぱら

個人的な無線技術の興味によって行う自己訓練、通信及び技術的研究の業務をいう。」と

定義されている。

私が、このクラブに入ってまず最初に驚いたのは一般には通信を中心に活動する傾向の

クラブ組織が多い中、技術的研究と言う事に重点を置いた組織であった事である。

この当時はトリオ(現ケンウッド)や八重洲無線などメーカー製の機器がアマチュア無線の

世界にも既に浸透し始めていたが、まだまだ自作の送受信機を用いて運用していた先輩

諸氏が、このクラブには結構多かった。

更に、メーカーがまだ市場に出していない様な装置や、既に市販はされていても高価で手

を出しにくい機器等はメンバーで試行し、安く作り上げていく様な組織であった。

その中で、技術指導的な役割を担っていたのがJA2EQの加藤OMである。

入会した当初から加藤OMには何かとお世話になった。特に私が親元を離れた遠隔地で

生活していると言う事もあり、本当の息子の様に接して頂いた。

のちに私たち夫婦の仲人までお願いし、現在でも40年以上に渡るお付き合いをさせて頂

いている。 JA2EQ局の前では私の自作機器の技術レベルは幼稚だった。

こんな、「ええころ八兵衛」な事をするから、いかん!と、よく叱られたモノである。

ええころ八兵衛とは名古屋では「い~かげん」と、言う意味で使われるが、その様に言われ

ながらも結果、加藤OMには技術的な事をたくさんに伝授して頂く事になった。

高価なパーツ類も惜しげなく頂戴し、学生の私は大いに助かったものである。

もしもJA2EQに出会わなければ私の無線技術の進歩は無かったと思われるほど大きな

変化を与えてくれた、私にとって大師匠である。

よく「役者が揃う」と言うが、私がつぎに驚いたのは、まさにそれであった。

当時クラブの構成員はおよそ150名ほどいたが我々学生を含め様々な職業の方が在籍

しており極端に言えば産婆から坊主までどんな役者でも揃う感じであった。

年齢層も広く、何かある時はいつも誰か専門の方がいて率先牽引が出来る組織だった。

この様な組織の中で、私は更に無線の面白さにのめり込んで行く事になる。

 

2010年3月20日 (土)

我があゆみ歴記12

昭和44年4月、私の大学生活がスタートした。

1年目は大学の学生寮で生活し、2年目からは下宿生活に変わったが、18歳まで暮らした

徳島を離れた私は、毎日が自由な大学生活を大いにエンジョイしていた。

学生寮は小高い丘の上にあり、無線をするには最適のロケーションであった。

現在では春日井のこの地は名古屋のベッドタウンとして見違えるような変貌を遂げている

が、私が入学した頃は学校が立つ丘とその周辺はほとんど何も無く、学校がさながら山城

の様に高蔵寺の駅から見渡せたものである。

逆に、学生寮からは名古屋方面が開けており、まさに無線をするためにお膳立てされた様

な環境だった。 この時は既にアマチュア無線の資格は取っており、寮の屋上にアンテナを

上げる許可を申し入れたところ快諾して貰い、すぐに50MHz帯で電波を出した。

当時私は小遣いを貯めてトリオ(現ケンウッド)のTR-1100と言う携帯型トランシーバー

を手に入れていた。 友達からは「弁当箱」と冷やかされる様な大きさと形であり、その上に

パワーも小さかったが、ロケーションのお陰で電波は良く飛んだ。

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連日のオンエアで、親しくなる局も日々増えて行った。

ある日、ローカル局から地域の無線クラブの紹介と入会の勧めがあった。 当時私は大学

の無線クラブに所属していたが、地域クラブにも興味がありミーティングに出向いた。

実はこのクラブこそ入会以来40年以上の長きに渡り、その地を離れた現在もなお所属中

の「春日井アマチュア無線クラブ」であった。

2文字コールサインの大先輩たちが多く集う、素晴らしい歴史有るクラブであるがその時の

私は、まだその凄さの全貌を知らなかった。 (つづく)

 

2010年3月19日 (金)

我があゆみ歴記11

高校3年生になって、私にも大学受験の時が来た。

この頃は全国的に学生運動が盛んで、私が大学受験した昭和44年は東京大学の入試

が取り止めになるほどその激しさはピークをむかえていた。

もちろん東大の入試など私には全くの無縁であったが、各大学における学生運動の程度

は当時の希望大学校選択の重要な要素の1つになっていた。

私は1回目の受験で大阪の大学を受験した。 大阪の私大では名前の知られている学校

であったが、入試の当日からヘルメット姿の学生に囲まれ、合格したら我々の仲間に入り

たまえ、と言われ住所と名前まで聞かれる始末であった。

不安を覚えながら受験した結果は「合格」、しかし何故か私は心から喜べなかった。

結局、期日までに入学金を納めずに、その大学への進学は取り止めた。

すぐさま進学担当の先生に相談し、2回目は学生運動のレベルから検索をして貰った。

さすがに進学担当の先生は全国的に大学の状況等をよく調査されており、少し遠くなるが

名古屋郊外に学生運動の無い学校が有ると教えてくれた。

しばらくして私は、同じ大学を受験する仲間5人と、一路名古屋に向け出発した。

名古屋市内で前泊し、受験当日は国鉄中央西線の列車で目指す大学に向かった。

乗車してわずか30分ほど走っただけなのに、列車はのどかな田舎の駅に到着した。

初めて駅に降りた時、私はハッキリとその駅の事を思い出した。

何と1年前の修学旅行の帰り、列車の窓から偶然にも見た駅、「高蔵寺」だった。

旅行の時はそんな事は思いもしなかったが、「お前は1年後にこの駅に再び来る事になる

のだ!」と言う不思議な力による知らせであった様に思ってしまう。

結局このあと11年と言う歳月、この地と関わる私の第2の生活が始まる事になる。

(つづく)

 

2010年3月18日 (木)

我があゆみ歴記10

高校でのクラブ活動は物理部に所属し、無線をはじめ電子回路などを学び楽しんだ。

物理部の活動日が毎日では無かった事から2足の草鞋を履いて弓道部にも入った。

昭和43年2月、高校2年の時に徳島県の高等学校弓道新人大会があった。

この日は、のちのち語られるほどの四国地方には珍しい大雪が降った日だった。

結果的に県内の送電線が雪の重みで断線し、1週間以上に渡って停電する様な雪害に

なったが、まだ降り始めだった頃にスタートした弓道大会は予定通り行われた。

和弓の試合は、四ッ矢二立ち(よつや ふたたち) と言って、1本ずつ4本の矢を射る事を

各勝負で前後半の2回行い合計8本の矢を射って何本的を射抜いたかで勝敗を決する。

アーチェリーと違って当たる場所は関係なく、的の何処かに当たれば良い。

この日の私は調子が良く、難敵を退けて気が付けば決勝戦まで勝ち進んでいた。

理由はどうも、激しい雪で的がよく見えていなかったのが幸いした様である。

決勝戦の結果は8射して7中、最後の1本を外してしまい、8射皆中した同じクラスのS君

とワンツー表彰となったが、徳島県で2位と言う結果に終わってしまった。

どうも、このあたりが私の人生を象徴しているように思われてならない。

  

私の高校の修学旅行は日程が長いので有名である。

旅行は高校2年の秋だった。 初日は徳島を出発し船で大阪に渡り、新幹線で小田原へ

箱根で1泊、翌日から東京で3泊、更に日光で1泊、奥日光で1泊、最終日には新潟との

県境ぐらいまで行ったあと、長野からの夜行寝台で1泊、全7泊8日の日程であった。

旅行の最終日は、夜の善光寺に参拝したあと、長野駅から急行「きそ号」の寝台に乗車。

夜の11時過ぎ、列車は一路中央西線(篠ノ井線)を名古屋に向けて動き出した。

貸切状態の車内ではバカ騒ぎが付き物であるが、連日の旅疲れと深夜と言う事もあって

みんなすぐに眠りについてしまった。 私もその中の一人であったが、ここで運命と言うか

因縁と言うか、後々考えると何とも不思議なめぐり合わせをする事になる。

名古屋到着を前に私は列車内で目を覚ました。 季節的にまだ夜が明けきれてなく外の

景色は暗かった。 今どの辺りを走っているかと思い、カーテンを開けて車外を覗いた時

ちょうど列車は田舎の駅を通過中であり、スピードも普通よりは控えめであったので駅名

看板の文字を読む事が出来た。 駅の名前は「高蔵寺」、更に暫く走ると少し明るい駅を

通過した、こちらの駅には「春日井」と書かれていた。

偶然にも車窓から見たこの2つの駅が、このあと私の人生に大きく関わって来る事になる

とは、この時は夢にも思わなかった。 (つづく)

 

2010年3月17日 (水)

我があゆみ歴記 9

普通のラジオよりも感度の良いモノを目指して、また短波帯などの幅広い周波数が聴ける

様な設計で、連日夜遅くまで勉強している振りを装って半田ゴテを振るった。

そうして完成させたのが高周波1段中間周波2段増幅のシングルスーパー受信機である。

無線やラジオの世界で言うところの、高1中2受信機と言うヤツである。

アンテナも本格的に設置したところ、受信感度が信じられないぐらいに上がって来た。

言葉こそ判らないが夜になると世界各国の放送が入感し、感動した事を覚えている。

ある日のこと、短波帯で選局のバリコンを回していたら変な電波が飛び込んで来た。

明らかに放送では無い。 話し方は電話の様であり、たわいも無い世間話しもしている。

実はこれが、私が生まれて初めて聞いたアマチュア無線の通信だったのである。

しばらくの間は、この極めて興味のある通信の傍受に熱中したが、今思えばこの傍受で

無線用語や通信のマナー、更には技術的な事など無線の基礎が身に付いた様に思う。

しかしながら根が「わるそ」の私は、聴いているだけでは我慢が出来なくて、実際に彼らと

話をしてみたくなったのである。

さっそく機器を組み直し、アマチュア無線の周波数に合わせて送受信が出来る様にした。

その時はもちろん無免許であり、呼び出し符号や住所などは偽って電波を出した。

内心、嘘はいけないと言う自覚はあったが、面白さの方が理性を上回ってしまっていた。

何の疑いも無く相手をしてくれた人もいたが、そこは駆け出し、すぐに近くのベテラン局に

バレてしまい、自宅に踏み込まれる事になってしまったのである。

本来なら違反で罰せられるところだが中学生の坊主でもあり、厳重注意で許して貰えた。

その時の方が言われた、「これだけの機器を自分で作れたら、免許は簡単に取れるから

頑張りなさい!空で会える日を待っているから!」 と、言う言葉が今でも忘れられない。

この事件がきっかけとなり、私にとって本当のアマチュア無線のスタートが切られた。

私のアマチュア無線の歩みは、このあと大学に進学した時、ある人物との出会いによって

大きく変化する事になるが、その話はもう少し先になる。 (つづく)

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2010年3月16日 (火)

我があゆみ歴記 8

私は教育実習の先生から教えられた事に加えて、専門書などでもあれこれ学習した。

興味のある事は覚えるのも速くて、次々にラジオ関連のいろはを習得して行く事が出来た。

また、小遣いを貰ったら近くのパーツ店に走り、足りない部品などを買い集めた。

私は自分の声が空を駈け巡るワイヤレスマイク(送信機)の方に特別興味を持った。

しばらく試行錯誤した末、おもちゃにしては面白い送信機の設計が完成し、組立を始めた。

教育実習の時の様な木板配線ではなくアルミのシャーシを加工して組み立てた。

私の初めての作品は、決して格好の良い出来映えではなかったが、十分に満足出来た。

時代は真空管からトランジスタに世代交代を始め掛けた頃であったが、テレビもラジオも

まだまだ真空管が全盛の時代であった。

しかし四国は台風が来て停電する事も多く、また父が電力会社に勤務していたと言う事も

あり、乾電池で情報が聞けるトランジスタラジオは、時代に先駆け既に我が家にはあった。

組み立てた送信機の試験はこのトランジスタラジオを父に内緒で持ち出しておこなった。

最初に、トランジスタラジオから自分の声が聞こえた時には、とても興奮したものである。

次に長時間のレコードを掛け、送信したままでラジオを片手に自転車で遠くまで走った。

走っても、走っても、レコードの音楽がラジオから消えなかった感覚を今でも覚えているが

電波がそんなに遠くまで届いていたと言う事、これは明らかに電波法違反である。

しかし、まだそんな事を知る由もなかった私は次に受信機の製作に取り掛かった。(つづく)

 

2010年3月15日 (月)

我があゆみ歴記 7

私の中高校時代はこれと言って特記する様な出来事は思い浮かばないが何事にも興味

を示し、またトコトンやらなければ気が済まない性格は昔も今も変わっていない。

私の通った中学校は、性質上「教育実習」と言うモノがあり、大学卒業後に教師を目指す

学生が単位取得の為、ある期間だけ専攻教科の授業を実習しにやって来ていた。

学生先生の授業は様々で、普通の教師なら講義をサラッと流すところでも、その学生の

専門分野の授業にあたれば、結構突っ込んで教えてくれる事があった。

実は私をアマチュア無線の世界に引き込んだのはこの教育実習の授業だったのである。

ある時期、技術家庭の教育実習で、ちょうどラジオの仕組みについての授業があった。

本来なら教科書だけの授業で終わるところ、その学生先生は木板の上に固定した真空管

やコイル・抵抗・コンデンサ類をクリップ付の線でつないで行き実際に生徒の前でラジオを

鳴らして見せたのである。

それだけでも驚いたが、今度は少し配線を替え、スピーカーに向かって喋ったところ別の

ラジオから先生の声が出た。 つまり簡単にワイヤレスマイクに組み替えてしまったのだ。

この授業にすっかりハマッてしまった私は、連日の様に先生に教えを請い、更には先生の

家にまでお邪魔し、ラジオの組立に必要な部品までも頂戴したのであった。 (つづく)

 

2010年3月14日 (日)

我があゆみ歴記 6

倒れ込む場所を選択する余裕も無かったが、私はとにかく水が飲める場所を探した。

天の助けか、すぐ近くに「うどん」の看板を見つけ、私はなりふり構わずに飛び込んだ。

水を1杯飲ませて貰える様にお願いしたところ快く受け入れてはくれたが、私の様子から

異常を察した店主は、次々と私に質問をして来たのである。

何処から来たのか? 何処へ行くのか? 家出なのか? 等々もちろん小遣い銭を持たず

に出て来た事も告げたところ「かあちゃん!このボクに、うどん作ってあげ!」のお言葉。

まさに地獄に仏とはこの事である。 結局、ちらし寿司までご馳走になってしまったのだ。

この出来事の結末は、うどん屋さんのお陰で夕方には無事高松の叔母の家に到着した。

冗談と思っていた母親は、慌てて叔母に電報(電話はまだ無い)を打った後、用事を全て

キャンセルして国鉄で駆け付けて来た。 このあと高松で数日間滞在し、自転車は国鉄の

手荷物便で送って、母親と2人で徳島に帰ったのを覚えている。

この冒険を聞いた母方の祖父は、この子は何処でも、誰かの助けを受けて生きて行ける

子や!と言ったが、確かにその後私の人生の窮地には必ず救世主が出現してくれている。

それからすぐ、母親は私の証言に基づき、叔父の車で国道11号線沿いのうどん屋さんを

探して御礼に行ってくれた。 有り難かったが、中学生になっても私は「わるそ」だった。

(つづく)

2010年3月13日 (土)

我があゆみ歴記 5

昭和38年、小学校を卒業し中学校に進学する年の春休みの事だった。

この時、祖父が進学祝いにと新しい自転車を1台組み立ててくれた。

大人用の自転車に大喜びをした私は、無性にどこかへ遠出をしたくなってしまった。

その頃には、兄妹の様にして育ったいとこは父親の勤務の都合で香川県の高松に居た。

春休みには遊びにおいで、と叔母からは誘いが来ていたが姉である母親の都合が悪くて

この春は行けないと聞かされた私は、新しい自転車で一人高松に向かう事を決心した。

徳島と高松はおよそ80kmほどの距離であるが、自転車では結構な時間が必要である。

単純計算で3時頃迄には着くだろうと言う安易な気持ちで朝の9時頃に自宅を出発した。

さすがに黙って行ったら家出になるので、ちょっとアアチャン(叔母)のところへ行ってくると

言っては出たが、母親は笑って全く信じていない様子だった事を覚えている。

最初の頃は順調に国道11号線を進んだが、徳島と香川の県境付近には大坂峠と言って

車でも難所になっている場所があり、ここで体力のほとんどを使ってしまう事になった。

気が付けば小遣い銭も持たずに出て来ており、ジュースの1本も買えなかったのである。

自転車のタイヤに何かモノが挟まった様にペダルが重くなって行った感覚を思い出す。

結局、道のりの半分を少し過ぎたあたりで完全に力尽き、自転車を投げ出して倒れ込んで

しまった。 子供の体力では、空腹と脱水症状には勝てなかった。 (つづく)

 

2010年3月11日 (木)

我があゆみ歴記 4

私の幼少期は阿波弁で言うところの「わるそ」であった様だ。

「わるそ」とは、陰湿的な悪い事はしないが、とにかく目が離せないわんぱく坊主の事だ。

私にしてみれば、自転車や自動車の作業場にある全てのモノが珍しく、興味をそそるモノ

ばかりで、とにかく実際に触って探検して見なければ気が済まなかっただけの事である。

消化器を逆さにして作業場中を泡だらけにしたり、火事の時に火元に投げる硝子容器に

入った消化弾をさわっていて落として割ってしまった事など数えれば限りが無い。

そのため、ケガにつながる様な危ない事をした時などは母方の祖父には目から火が出る

くらいのゲンコツをたびたび頂戴したモノである。

小学校に進んだ頃からは、道草が楽しみの1つになった。 下校中に、興味をそそる事が

その頃の私の廻りにはたくさんあった。 河川の埋め立てやラッシュだった建築中の家屋

などは絶好の遊び場だった。 映画で有名になった「眉山」や徳島城址近くの「城山」等に

登れば戦時中の防空壕なども残っていて、入った体験の無い少年たちの興味を引いた。

建築中の家の、当時は汲み取り式だったトイレのマンホールの中でガキ集会も開いた。

ここから「うんこ」が落ちて来るのか? と下から便器の穴を眺めた経験を持っている者も

珍しいだろう! ケースに入ったソロバンで石をノックして、玉が全部外れて壊れてしまって

叱られた事もあった。 河川の埋め立て場では、堆積したばかりの土砂に足を踏み入れて

底なし沼にハマッタ様に出られなくなってしまい、もうダメかと思った事もあった。

そんな時でも、いつも廻りには友達がいて、また子供達をそれとなく見守っていた大人たち

が居てくれた事を覚えている。 今とは違って本当に良き時代だった気がする。 (つづく)