オヤジの隠し芸
時に元禄15年12月14日江戸の夜風を振るわせて響くは山鹿流儀の陣太鼓
しかも一打ち二打ち三流れ、思わずハッと立ち上がり耳を澄ませて太鼓を数え
おう、まさしく赤穂浪士の討ち入りじゃ、助太刀するはこの時ぞ、もしやその
中に昼間分かれたあの蕎麦屋が居りはせぬか、名前はなんと今ひとたび逢うて
別れが告げたいものと、稽古襦袢に身を固めて、段小倉の袴、股立ち高っかく
取り上げし白綾たたんで後ろ鉢巻き眼のつる如く、なげしにかかるは先祖伝来
俵弾正鍛えたる九尺の手槍を右の手に切戸を開けて一足表に踏み出せば、天は
幽暗地は凱々たる白雪を蹴立てて行く手は松坂町・・・これは長編歌謡浪曲の
俵星玄蕃の語りの部分だ。昔々の本日未明、ご先祖様の藩の浪士、四十七人が
江戸本所松坂町の吉良上野介の屋敷に討ち入って本懐を遂げたとされる。子孫
と言う訳でもないのに、昔からオヤジはこの時期になると何故か血が騒ぐのだ。
この長編歌謡浪曲に至っては、就職した時の「一芸」のため学生時代に覚えた。
芸は身を助けると言うが、歌から始まり浪曲、語りを丸暗記したお陰で宴会の
かくし芸には困らなかった。「おい、サク・サク・サク」をやれ、と引っ張り
ダゴだったため調子に乗り「赤垣源蔵徳利の別れ」や「紀伊国屋文左衛門」も
空で歌えるように練習した。当時は、カラオケがなかったのも良かった様だが
一つ出たホイの、が主流だった時代に、オヤジの芸は新鮮だったかも知れない。
会社員でもそんな下積みの時代があり、段々と上に行く、社員旅行がイヤだの
忘年会がイヤだの、文句の多い若者が増えたが、いまの世の中は本当に幸せだ。
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