私の無線室

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    無線室改装しました。

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2016年9月

2016年9月28日 (水)

ケミカルイメージ

東京の築地市場移転問題に関するニュースが連日伝えられている。

盛り土をすると決めたハズなのに地下空間が存在する、と言う事実関係については

小池新都知事のリーダーシップに期待し、徹底的に追及をして欲しいと願っているが

今日お話ししたいのは「ケミカルイメージ」についてである。

これも、ある意味マスコミの報道についてのコメントになってしまうが、少なくても我々

ケミカル出身の者から見れば、素人に余計な不安を与えてしまう伝え方をしている様

な部分が見えてしまう。報道としては誇張して興味を引こうとする部分はあると思うが

化学を知らない国民の不安を必要以上にあおる事だけは避けて欲しい。

自然に存在する様々な放射線も、知らない人は放射能と思い、同時に核につながる。

同じように「シアン」=「青酸」=「青酸カリ」=「飲んだら即死」となってしまうのである。

シアンなどと言うものは毒物だけではなく、瞬間接着剤などにも普通に存在している。

こんな短絡的なケミカルイメージを「あたかも」と言う感覚では決して伝えて欲しくない。

問題は、それがどのぐらいの数値で含まれていて、どの様な影響があるかである。

何も知らない視聴者の怖いもの見たさ、知りたさだけをターゲットに必要以上の不安

を与えてまで視聴率を高める様な事はして欲しくないと思っているオヤジである。

  

2016年9月26日 (月)

淡路島での再会③

23日の朝は6時半ごろ起床。 昨晩は久しぶりに美味しいお酒をたくさんいただいた。

年を取るとお酒が朝まて残る事があるが、嬉しくて楽しいお酒はあとに残らない様だ。

朝食のあと、くつろいでいるうちにすぐにお別れの出発時刻8時半がやって来た。

姫路城観光組のバス2台と、高速舞子行きの小型バス1台とはここでお別れである。

オヤジは、鳴門の渦潮観潮組のバス1台に追従して福良港まで向かう。

徳島のオヤジが何故に鳴門の渦潮観潮かと思われるかも知れないが、淡路島からの

観潮船に乗船するのは初めてで、渦も毎回違う顔を見せる事からあえてお願いした。

港に到着すると我々を待っていたのは2隻の帆船だ。 鳴門側からの船よりズッと良い。

天気が心配されたが雨にも遭わず、船は港を離れて一路鳴門海峡まで船足を速めた。

潮目は秋の大潮と聞いて大きな渦を期待したが、結果は期待外れに終わり、参加各位

には徳島県人としては少々申し訳ない気持ちである。(ぜひまたのお越しを願いたい。)

とうとう、再びお別れの時が来た。 またの再会を約束し渦潮観潮組43名のバスを福良

港で見送ったあと、一人寂しく淡路島南インターから帰路についた。

今回、思い掛けないご厚意で退職者まで参加させていただくイベントにご一緒出来た事

は本当に嬉しかった。 改めて本当に自分は幸せ者だと感じているオヤジである。

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2016年9月25日 (日)

淡路島での再会②

午後4時ちょうどに創立50周年の記念式典が始まった。

この式典のため、ご招待組をはじめ工場・本部を含め122名が一堂に会した。

これまで様々な催し物があったが、これだけの人数が同時に集まったのは初めてだ。

過去にお世話になった懐かしい先輩方のお顔も見られたが、お亡くなりになった方や

体調不良で出席されていない方もあり、時の移ろいと言うものを感じさせられてしまう。

しかし、ご高齢の相談役が元気にご出席されていたのは、オヤジとしても嬉しかった。

記念式典の最後は全員で集合写真を撮影したが、これだけの人数を うまく撮るのは

慣れているハズのプロのカメラマンも四苦八苦である。 無事記念式典はお開きした。

記念式典のあと大浴場へ、懐かしい面々と一緒に汗を流しサッパリして夕食を待つ。

午後6時からお楽しみの宴会が始まった。 淡路の新鮮な山海の幸に舌鼓みを打つ。

だが、別のテーブルで話をして自分のテーブルに戻ると、残しておいた料理が持ち去ら

れていたのは「残念!」だ。 余興で淡路の「阿波踊り」があったが、やはり本場徳島の

スタイルとは少し違いがある事に気づく。 しかしあのお囃子はやはり体が浮いてしまう。

宴会の後はすぐ隣の和室に席を移し、続きでセットされていた2次会に参加させて頂く。

お酒を飲まない人も多い様で、2次会のメンバーは半分近くまで減っていた様である。

その後、場所を客室に移して夜遅くまで懐かしい昔話に花を咲かせたオヤジである。

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2016年9月24日 (土)

淡路島での再会①

秋分の日の22日午後、オヤジは愛車で淡路島の洲本まで向かった。

この日は退職してから約半年、オヤジにとっては待ちに待った再会の日であった。

退職した会社が創立50周年を迎え、その記念式典を兼ねた社員旅行にご招待頂い

ていたからである。 大鳴門峡を渡っての本四道路は、出張で高速バスが通るルート

であるが、洲本で降りるのは初めてだ。 淡路島の一般道路は結構混雑をしていたが

自宅から約1時間のドライブで、目的地である「ホテルニューアワジ」に到着する。

時刻は2時半、まだ福井組、大阪組ともバスは到着していなかったので、お先に部屋

に荷物を置いてから皆の到着を待った。 バス車内からホテルには連絡をいれている

様で、「3時に到着しま~す」と、ホテル玄関前のお迎えスタッフたちが叫んでいる。

ほどなく福井からのバス3台が到着、少し遅れて舞子からのバスも到着した。

久しぶりの懐かしい、顔、顔、顔、やはり共に同じ目標に向かって仕事をした仲間たち

とは本当に良いモノである。 握手を交わして久しぶりの再会を喜び合った。

今回の50周年記念の催しには、往年の諸先輩方(功労者)も来られると聞いた。

退職ホヤホヤの親父などは、おこがましい話しだが、実に有り難く嬉しいご招待だ。

みなさん少し休憩を取ったあと、創立50周年の記念式典が行われる会場に移動した。

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2016年9月14日 (水)

いのちを考える!

先週、名古屋の義母(家内の母親)が逝った。 86歳の生涯だった。

昨年の11月に心臓動脈瘤が見つかったが、高齢のために手術は難しいと医者から

言われ、破裂しない様に注意して養生していた。 しかしその日は突然にやって来た。

ただ大きく破裂しなかった様で、ゆっくりと意識を失って旅立った様である。

それを物語るかの様に、その死に顔は穏やかで少しだけ遺族の気持ちを和らげた。

亡くなるその日まで至って元気で日常生活を謳歌していただけに、本当に突然だ。

オヤジは家内と一緒にすぐ名古屋に向かったが、ちょうど葬儀・告別式の日が友引と

重なったので、仮通夜→通夜→葬儀・告別式と葬儀社にまる3日間お世話になった。

最近流行の「家族葬」であったが、サービスも良くて言う事なしのお葬式であった。

お金を掛けて豪華にやるのだけが能でないと改めて感じた。 ただやはり都会である

名古屋で有名な斎場は、一度に61の遺体を焼却する能力を持っていると聞いた。

そんな現実を突きつけられると、命と言うものをゆっくり考えている暇も無い。

オヤジの親父は間もなく91歳を迎えようとしている現在も、寝たきりで病院暮らしだ。

もう入院してからかれこれ1年半になる。 オヤジの事はハッキリと判るが、寝たきりの

影響で体の色んな処が痛いと言う。 誰も、1日でも長く生きて欲しいと願うものである

が、義母の死に接し、命とは?生き方とは?、と言う事を考えてしまうオヤジである。

  

2016年9月 1日 (木)

台風のおはなし

9月になった。台風の話が続いたところで、もう1つだけ台風のお話しをして見たい。

オヤジが過去に体験した台風のうち、2つだけ「ヤバイ」、と思った台風がある。

1つ目のヤバイは、命の危機で、オヤジが11歳の時に体験した「第2室戸台風」だ。

高知県の室戸岬上陸時に、最大風速66.7mを記録し、最大瞬間風速に至っては

84.5m以上と言う記録にとどまっている。 これはこの風速で記録計が飛ばされて

これ以上の風速が計れなかったから、とされている。

今回の台風10号の風速が35mほどであるから、その凄さが解かって貰えるだろう。

もう「風速40米がなんだ!ハハハ!」なとど笑っていられるレベルではない。

木造の家は地震の様に大きく揺れ、ミシミシと大きな音を立てて軋み続けた。

水は畳まであと1センチのところまで来た。 木塀は全て何処かへ飛ばされ、見慣れ

た風景を一変させた。 家は何とか残ったが、電気は停まり不自由な生活が続いた。

一時、もうダメかも知れないと子供ながらに覚悟した瞬間があった様に記憶している。

2つ目のヤバイは、建物の危機で、福井在住の時にやって来た「台風19号」である。

日本海側を衰えずに進んで来た台風だったが、規模的には四国ではごく普通レベル

の台風であった。 しかし福井では雪に備えてベランダの半分がガラス張りのサンル

ームになっているので、これにモロに風が当たり軋む。 福井では一戸建ての家でも

雨戸の無い家が多い。 ましてマンションの窓に雨戸などある訳がない。

この時は、もう打ち抜かれると覚悟し、抜かれた時は畳を上げて押さえる準備をした。

幸い、2階の我が家は抜かれる事は無かったが、4階から上が何軒か被害に遭った。

今でもこの2つは、オヤジの記憶の中にハッキリ残る「ヤバイ」台風である。

強い台風と、日頃来ない地域を襲う台風は勘弁して欲しい、と願うオヤジである。