我があゆみ歴記22
昭和55年9月1日から私は大阪工場に勤務し始めた。
当時の大阪工場はガラス管を加工して注射液用のアンプルを作るガラス工場であった。
その頃はまだガラス製のアンプルが主流で、グループ会社向けに出荷されるアンプルの
生産は好調であった。 毎朝、アンプルの原料となる様々な太さや色のガラス管が大量に
トラックで入荷されて来た。 私の最初の仕事は、この背丈より長い「生地管」と呼ばれる
ガラス管1組50本ほどの束を何束もトラックから下ろし、「馬」と呼ばれる組木の台の上に
乗せ、生地管の包装紙を解いたあと、綿製のロープで2ヶ所を縛って束ねるモノであった。
この仕事は会社では「生地管くくり」と、呼ばれていた。
束ねられた生地管は水槽で洗浄後に乾燥室で水分を除き2階の加工機へと送られる。
加工機では生地管の必要な部分をバーナーで加熱して、伸ばしたり切断をしたりしながら
製品のアンプルにして行く。 私は毎日汗をかきながら、この生地管くくりを続けた。
初めの頃、肉体的な疲労は出たが、自分自身で選んだ道であり悔いは無かった。
営業の時と違って、定時で仕事を終われると言う気楽さが嬉しくもあったが、「これで俺の
出世も終わったな」と、正直この時には思った。
同時に今まで自分の中に有ったあらゆるプライドを全部捨て去って、ゼロからの再出発を
決めた。 結果、周りの先輩達との距離は、それまで以上に急速に近づいて行った。
当時、私は30歳、一番年の近い人で40歳ぐらいで、定年に近いような年輩の方達も多か
ったが 私は、この親子ほど年の離れた先輩方には随分大事に、良くして頂いた。
阪急中津のガード下の小汚い居酒屋で飲んだあと十三に流れてカラオケを歌いまくった。
営業の酒と違って、飲んだ時の会話の中に一切仕事の話しが出ないのが心地よかった。
勘定の時、私の支払いは免除か、減額での割り勘によく甘えた。 本当にありがたかった。
この時、君は我々には気遣う事は無い、素直に甘えておきなさい。そのかわり君に後輩が
出来た時には、我々に返す気持ちの分を順送りで彼らにしてあげて下さい!と、先輩達に
は教えられた。 現在でも、私はこの教えを出来る限り実践する様に努めている。
そんなある日、突然私は工場長に呼び出しを受け、急いで事務所に向かった。 (つづく)
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