私の無線室

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    無線室改装しました。

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2018年8月

2018年8月31日 (金)

人生をかえた人③

人生をかえてくれた人3人目は、オヤジが最初に就職した会社の大阪工場長だった。

7年間勤めた営業を外して欲しい、と人事考課の希望欄に書いた。 営業を外れれば

地元の工場勤務になるだろうとの甘い考えだったが、結果赴任先は大阪工場だった。

今は無き大阪工場は、当時注射液のアンプルを製造するガラス工場で、工場の中は

夏は50℃、冬でも30℃ある様な環境だった。 そんな工場でオヤジは明けても暮れ

ても原料のガラス管の受け入れと洗浄作業を行った。 正直もう終わったなと思った。

名古屋支店時代から、実績は ずっと達成して来ていたオヤジだったが、大阪営業に

転勤になり、その販売数量の違いにカルチャーショックを受け、上司との人間関係も

あって希望を出したので仕方なかったが、チョッと寂しさを感じ始めたころだった。

工場長から1つの制御盤の図面を見せられ、これを組み立てられるか?と問われた。

オヤジが出来ます、と答えて以降どれだけの制御盤を新設・複製・改良した事だろう。

大学時代に師匠の一言で代わったアルバイトが、役に立った事は言うまでもない。

この事以降には、パソコンのプログラム開発、複合材料の開発など全てが任された。

専門ではなかった分野の仕事も、次々にオヤジの下に飛び込んで来る様になった。

1つの大きなテーマの仕事が終わるたび、オヤジの肩書きは次々と変わって行った。

何事においても、「やって見い!」、の一言から始まった。 この時から専門以外の事

でも、努力すれば出来るのだ、会社に入ってからが勉強なのだ、と言う事を教わった。 

その後、紆余曲折を経て現在に至っているが、1つ前の会社でも同じ様な事があった。

やはりオヤジはターニングポイントで、「やって見い!」と言ってくれる人に人生をかえ

てもらっている幸せな男である様だ。

   

2018年8月30日 (木)

人生をかえた人②

次にオヤジにとって、「人生をかえてくれた人」は、オヤジたち夫婦の仲人さんだ。

結果的に仲人さんをして頂く事になったが、オヤジが亡くなった家内の父親のほかに

もう一人の「名古屋の親父」、と呼んでいる人物である。 昭和44年、オヤジが名古屋

の大学に進学した時から親代わりでお世話になった人で、アマチュア無線の師匠でも

ある。 師匠には現在までの長きに渡り、どのくらい無線の勉強をさせて貰っただろう。

オヤジの無線の知識のほとんどは、師匠に教わったものだと言っても過言ではない。

すでに90歳近い年齢だが、まだお元気でハムライフを楽しまれている。

そんな師匠が人生をかえてくれたエピソードは、大学4年の時だった。 実験とか専門

科目以外の授業がなくなり、オヤジはボウリング場でアルバイトをしていた事があった。

アルバイト代を貯めて、その当時欲しかった無線の機械を購入するのが目的だった。

当時はボウリングが大流行し、アルバイトをすると終業時間前に 何ゲームがプレイを

無料でさせて貰える事もあり、このバイトは人気があった。 そんなアルバイトだったが

師匠に、「止めろ!」、と言われた。 仕事自体をどうこう言う訳ではないが、自分と同じ

様な年齢の若者が彼女を連れてやって来る様な場所で仕事をしていると、自分も給料

が入ったら...と思って使うようになり、貯金の目的が達成できなくなるぞ、と言われた。

その代り、ワシが良いアルバイト先を紹介してやるから、そこに行きなさい、と言われた。

その会社こそ、愛知電機の外注先である自動制御盤の設計・組み立ての会社だった。

ここで学んだ事が、将来オヤジの飯の種となる訳だが、その当時は知る由もなかった。

ただ、この事も人生の大きなターニングポイントになったのは間違いない。

  

2018年8月29日 (水)

人生をかえた人①

今年も先週末に24時間テレビ「愛は地球を救う」、が放送された。 

毎年 この番組を見るたび、こんな生き方をしていてはいけない、もっと人に感謝して

生きなくてはいけない、と反省をするオヤジだが直ぐに忘れてしまうので困る。

今年のテーマは、「人生をかえてくれた人」だった。 あなたの人生をかえてくれた人は

誰ですか?、と言う事で番組は進められて行ったが、人は人生の中で必ずターニング

ポイントがあり、そこで出逢った人の影響を受けて大きく変わって行く。 それば、良い

方向に変わる場合もあれば、悪事に手を染めるなど悪い方向に変わることもある。

そんな事から、改めてオヤジの人生をかえてくれた人について考えて見た。

オヤジには、これまで「人生をかえてくれた」、と言える人物が3人いる。

まず最初に人生をかえてくれた人は、「父親」だった。 父親が経験した野球の道を追

って徳島商業高校で野球をしたい、と言い出した中学生の頃だが、父親はそれを絶対

に許してくれなかった。 野球で飯が喰える人間が何人居るか、どんな部活をしても良

いが、野球だけは駄目だ、と絶対に譲らなかった。 大喧嘩になった。  最後には扶養

家族であるオヤジが折れて、普通高への進路を取ることになったが、プロ野球で自由

契約になった選手などの様子を見ていると、「なるほどな」、と頷ける点がある。

父親はそんな先を見ていたのかも知れない。 この事は初めから決まっていたオヤジ

の運命なのか否かは定かではないが、もしあの時野球をしていたら、今ごろオヤジは

どうなっていただろうか、と考えるとやはりターニングポイントだった様な気がする。

  

    

2018年8月28日 (火)

名古屋との縁(えにし)

オヤジにとって福井が第2のふる里なら、名古屋もまた同じである。

名古屋、と言う地名はオヤジが幼少期の頃から、頭の片隅に入っていた名前だった。

昭和30年ごろ母親の実家が「ジャイアント」、と言うオート三輪車のディーラーをして

いた時期が有り、この自動車のメーカーが名古屋に本社を持つ愛知機械工業だった。

愛知機械工業は、日産自動車の系列で、ジャイアントは、貨物のほかに消防自動車

仕様 などもあり、 祖父が時々名古屋に出張していた様な事から早くから頭に入って

いた訳である。 しかしこの地が将来オヤジと大きく関係する事になるとは、当時は夢

にも思わなかった。 更に、関係するのにも運命的な出来事が有ったのである。

昭和44年、オヤジは大阪の大学に入学が決まったが、当時は東大の入試が取り止

めになるほど学生運動が激化していた。 オヤジが行く事になっていた大学も例外で

なく、身の危険を感じたオヤジは入学を断念し、改めて高校の進学担当教諭に相談

した。 この時期からの選択は難しいぞ、と言いながら、逆に政治に興味が無いのが

心配になるぐらいビラ1枚貼っていない学校が有るけど行くか?、と問われた。

オヤジが迷わず「行く」、と答えた学校こそ名古屋の学校だったわけである。

以後、最初に就職した会社の名古屋支店勤務の期間を含めて11年間、愛知県内に

住んだが、この間に伴侶を得て、多くの友人も出来た。 何よりも、第3の親父、お袋と

呼べるほどお世話になった人と、実家の様に帰れる処が出来たのが嬉しい。 

しかし、オヤジがもし大阪の大学に行っていたら、現在どんな家族が出来て、どんな

友達が出来て、どこでどんな生活をしただろう、などと考えると不思議な気持になる。

最近は、こんな話しばかりがブログネタになる事が多くなった。 大丈夫だろうか?

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2018年8月27日 (月)

懐かしの眼鏡業界

今日は、その昔オヤジが携わった事のある「眼鏡」、特に業界について話してみたい。

オヤジは 眼鏡の仕事では失敗したが、ある意味ドップリと浸からなくては解からない

多くの事が経験でき、オヤジの財産の1つになっていると言っても良いだろう。

現在、産地福井県鯖江のメーカーも様変わりし、鯖江でないと生産出来ない高級枠

つまり刻印に「Maid in SABAE」、と入る枠を作れるメーカーしか生き残っていない

と言っても過言ではないだろう。 それほど多くの会社が淘汰されて行った訳である。

かつては鯖江で石を投げれば眼鏡屋に当る、と言われたほど眼鏡関係に従事する

会社は多かったが当時からメーカーと呼ばれる会社は少なく、あの有名なNikonや

HOYAでさえ、会社形態を持っていなかった。 小さな事務所だけ持って、ほとんどは

外注先や内職さんに仕事を回すだけだった。 もちろん両社の様な高級枠を下請け

出来る腕のある会社は現在でも生き残っている可能性は高いが、定かではない。

言い換えると、眼鏡のメーカーと言っても、最初から最後まで一貫して生産している

会社はほとんど無いと言う業界なのである。 そのため歩留まりも非常に悪かった。

眼鏡の工程数をご存じだろうか? 皆さんほとんどご存じないが、樹脂枠で100工程

金属枠では何と200工程ほどになる。 これらの工程が、順に外注先や内職さんを

回って行く訳である。 1000個の部材を出しても、帰って来たら300個ほどになって

いる様な事はザラである。 追及すると、各先とも来た時には既に減っていたと言う。

それぞれがそれぞれの先を庇い、何処でどの様に減ったかを全く追及出来なかった。

そんな訳で、当時はメーカーの粗利益が商社並の5%ほどになった様な事もあった。

こんなお粗末な業界では、淘汰されても仕方がない。 コーニングやレイバンなどの

高級枠でさえ、韓国から台湾、中国へと製造拠点を替えて行ってしまった。

過去、安物枠など沢山の仕事が有った時、多くの従業員が難しい仕事は嫌と言った。

難しいから日本でするのだ。 簡単な枠は誰でも作れる。 こんな枠が作れなかった

ら、する仕事が無くなる。 経営など解からなくてもオヤジはこの3つを叫び続けた。

自慢でないが、当時の年齢からこの事態が読めていた自分自身を褒めてやりたい。

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2018年8月26日 (日)

何と言う事をする

先日、台湾台北にある中正紀念堂の蒋介石像にペイントの落書きが有ったと言う。

しかも広範囲に悪戯されていて、容易に落とし辛い、と報じられた。

中正紀念堂は、混雑した台北市内にあって、広大な土地と壮大な建物は、市民や

観光客の人気スポットになっていて、オヤジもよく行った好きな観光施設である。

オヤジが自身で蒋介石の事を知る以前から、亡くなった父親からは蒋介石の事は

色々と聞かされていたが、何よりも我々が台湾に旅行して、中国や韓国とは異なる

親日的な国だと感じるのは蒋介石の影響が大だと言う。 また、第2次世界大戦が

終了し、日本が占領下になる時、北海道がロシア、本州がアメリカ、四国がイギリス

などと分かれた統治にならず、アメリカ1国になったのも彼のお蔭だと聞いている。

そんな、彼の像が汚された、と聞いてオヤジは自国の事の様に腹立たしい。

もっとも自国、他国を問わず、国の宝物などに悪戯をする奴らは許されない。

時間とお金があれば、汚れ落としのボランティアに出向くのだが、残念ながら今の

オヤジには少々難しいようである。 いずれにしても、はやい復旧を願っている。

ちなみに、中正紀念堂は、「記」ではなく「紀」の文字が使われている。

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2018年8月25日 (土)

遊べる古い携帯

最近の携帯電話(スマホ)は面白い。 新機種に替わって、御用済みになった携帯が

まだ十分おもちゃになるからである。 電話こそつながらないが、ネットワーク圏内に

居ればアプリなどは、まだそのまま使用できるものがある。 ある意味、小さなアンド

ロイドパソコンとして機能する、と言う訳である。 一番の値打ちはデジカメの機能が

そっくり残っている事や、目覚まし時計やスケジュール帳などとしても重宝する。

特に使い慣れた機種だけに手放し難い面があるが、常時2つ持つ事は避けよう、と

思っている。 オヤジの以前の機種は京セラの DIGNO503KC だが、新機種と比

べると多くの点で優れている事が解る。 やはり新機は、高齢者用かんたん携帯だ。

まあオヤジの場合は何かする時は携帯よりパソコンなので、さほど不自由は無い。

この際、古い携帯電話については、徹底的にオモチャとして遊び倒してみたい。

おもしろい遊び方を見つけだら、また報告したいと思っている。

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2018年8月24日 (金)

2020油断は禁物

久々に徳島に台風が上陸した。 近年の安全を見た少しオーバーな天気予報や避難

情報にオヤジも身構えたが、台風メッカの県からすると、ごく普通の嵐で終わった。

ただ台風の東側に入った地域などでは被害も出た様で、お見舞いを申し上げたい。

今回の台風は、久し振りに徳島は台風の目に入った。 福井の友人からお見舞いの

ラインを貰った時がその最中で、「口ほどにもない」、と送ったがその後少し荒れた。

まあ、実家を含めてオヤジの関係に被害はなかったので、ご安心いただきたい。

現在インドネシアで、4年に1度のアジア大会が熱戦を繰り広げている。

連日、競泳やバドミントンで日本勢の金メダルラッシュが報じられているが、オヤジは

テレビを見ながら2つの事を感じている。 その1つは、アメリカ合衆国やロシアなどの

国は、毎回のオリンピックをこんな感じで見ているのだろうな、と言う事だ。

かなりの高確率で日本が金メダルを取っている様子は、オヤジにはそう感じる。

同時に、アジアでは好成績でも、世界の壁は厚いのだと言う事が改めて理解出来る。

今回の大会が、本当の意味で2020年の前哨戦となれば良いが、と願っている。

もう1つは、諜報先進国中国の不気味な存在である。 現在、競泳などでの対戦成績

は、日本が非常に良い位置につけて健闘しているが、本当にそれで浮かれていても

良いのだろうか、と言う事だ。 中国全土12億人以上の人口の中で、各省から優秀

な人材を集め、各競技で英才教育を進めている組織が、あんなに簡単に、日本に金

メダルを譲ってくれるものだろうか?と、ついつい疑いの目を持って見てしまう。

本命のオリンピックに向けて、今は飴をしゃぶらせて貰っているだけかも知れないと

言う事は考えられないだろうか? 今はひたすら情報収集に努めているとしたらどう

だろう。 あの諜報大国の事、どうしてもその点を疑いたくなってしまう。

いずれにしても、日本には更にその上を行ってほしい。 手の内を見せても勝てる事

こそ、真の王者の姿だと思う。 がんばれニッポン at 2020 in TOKYO!

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Agked

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2018年8月23日 (木)

高校野球に思う

100回記念の高校野球が幕を閉じた。 やはりオヤジが予想した通りの結果に終わ

った。 先のブログで、オヤジはハッキリと優勝校の名前を挙げなかったので、後から

何とでも言えるだろう、と思われるかも知れないが本当の事である。

応援されていた方には申し訳ないが、職業野球予備軍が、こう再三に渡って優勝を

したのでは正直面白くない。 同じ高校生同士ではないか、と思われるかも知れない

が、身体の鍛え方が違う。 サッカー選手の言葉を借りると「半端ない!」、である。

トラの穴ではないが、常勝軍団育成学校、と言っても良いぐらいの練習量だと言う。

その昔、何処かの高校が初めて改造に取り組んだ頃とは、もう全然レベルが違う。

素人が見ても一目瞭然だ。 もう何回試合をしても、同じ結果は間違いないだろう。

いずれにしろ、選手たちはよくガンバッたと思う。 すなおに「おめでとう」、を言おう。

100回の記念大会で、歴史上初めて3回目の新調優勝旗が東北に渡る、と期待を

したが、その夢は叶わなかった。 ただ面白くない結果の中にも良い話しがあった。

優勝校の選手は、敵方の選手の負傷にも駆けつけて手当をした、と報じられた。

これはなかなか出来ない事で、その点については怪我をさせて来い、と命令をする

何処かの大学の元監督とは大違いで、あの体格に似合わず良く指導出来ている。

野球が大切かも知れないが、この辺の指導も監督にとっては、重要な使命なのだ。

いつか、何処かの普通の高校が倒してくれるのを期待して、夏に終わりを告げよう。

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2018年8月22日 (水)

ヤバイ台風20号

台風19号と20号が、連続して北上を続けているが、どうも20号の進路がヤバイ。

ここのところ異常気象に同期する様に、台風の進路も従来と比べると変化して来た。

今までに無かった様な地域やコースを辿り、我々を驚かせている。 従来から台風の

メッカと言われている様なオヤジたちの地域には有り難いが、日ごろ通らないような

地域を通ると、被害がより甚大になってしまうのがいけない。 かと言って、常連県が

引き受けるのも何だが、20号は久しぶりに高知県の沖から北上しそうな感じである。

海から上がって来ると、台風が衰えず、勢力を保ったままでやって来るのが嫌だ。

第2室戸台風の時の事を考えると、やはり不気味である。 特に夜に来るといけない。

また昔と比べると台風が巨大化しているし、逆に実家などは建物が古くなっている。

いままで大丈夫だったから、と安心は出来ない。 何より、オヤジ自身がもう若くない。

こうなると、やはり今全国的になって来ている、早めの非難が必要になるのだろう。

チョッとした台風で避難などは考えた事も無かったが、とうとうそんな年になったのだ。

いずれにしろ、直撃はしないで欲しい、と願っているオヤジである。

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