いま8月に想う ③
徳島商業の優勝までの道のりは決して楽なモノではなかったと聞いている。
当時も、海草中学や水戸商業、平安中学や広島商業などの名門校と言われる学校が
出場していた事も理由の1つだが、何より四国大会を勝ち抜くのが大変だった様だ。
当時は1県1校の出場ではなく、徳島県で優勝しても高松商業や松山商業など四国の
強豪校に勝たないと甲子園には行けなかったからである。
そんな予選を勝ち抜いて出場した全国大会は今では想像できない大会であった様だ。
甲子園球場には、「勝って兜の緒を締めよ!」 とか、「戦い抜こう大東亜戦!」 などの
戦時色濃い文言が並び、場内放送では「○○県の××さん至急ご自宅にお帰り下さい!
おめでとうございます。召集令状が届きました。」などの放送も頻繁にあったそうだ。
選手のユニフォームからは敵国の文字が消えて、全て漢字表記になったと言う。
野球用語もストライクが「1本」、ボールが「ダメ」など、窮屈な試合だったと聞いている。
そんな中、徳島商業は全て1点差ゲームをモノにして決勝戦まで勝ち進んだ。
決勝では名門の平安中学(現 龍谷大平安高校)と対戦、最後は連投で疲れの見えた
名投手、富樫投手から選んだ四球が押し出しサヨナラの決勝点になったそうである。
そんな優勝で得た優勝盾も戦争で消失して、親父らの記念品と言えば試合終了時に
審判から当時の主将に手渡されたボール1個だそうだ。 このボールは、現在甲子園
球場内の歴史資料館に展示されている。
優賞記念のボールがありますか、たいしたもんです、オヤジさんを誇れますな、もう少し記念になるものがあればいいのにな、今では捨てるほどあるのに、今年で100年になりますか、今後歴史はちゃくちゃくと作られていくんですな。
投稿: | 2015年8月 7日 (金) 13:26